天狼のオオカミ 第三章"オオカミの涙" 一 

 

──ガブを、幸せにしてやってくれ……

"あの日の約束"を、オレは忘れたわけじゃない。あいつの言葉は今でも時折脳裏をよぎる。                            親友のためならこの命をも捧げよう。その気持ちは天壌無窮。決して変わる事は無い。

そのはずなのに……

「裏切り者はどこまでも追いかけて、八つ裂きにするんだ!!」
オレはいつだって嘘つきだ。今まで、ずっとそうだった。                                                 本性を表したのなんて、親友の前でしか無いかもしれない。
どうしてオレは素直になれねぇんだろう。                                                      「オレはガブをどうしたらいいんだ、誰か、助けてくれ〜!」とでもみんなの前で罵れば、                          いっそその方が良かったのかもな。


だが、出来なかった。ボスとしての責務がそれを隔て、ヤギへの怨憎がそれを妨げ、                                   狼としてのプライドがそれを邪魔した。それらがまたオレの心を押し込め、
何も見えなくする。おかげで愚かな感情に走る事も無ければ、自分の気持ちも分からなくなる。                    そこがオレの長所でありまた最大の瑕瑾であることも、                                                 オレは自分自身でわきまえていた。

だが、オレの本心を奥底まで見透かす目の持ち主がただひとりいた。                                       あいつは恐ろしい狼だぜ。オレが強がった事を言うと、いつも鼻でせせ笑ってるんだ。
ほら。この時もあいつは笑っていた。ガブが河へ飛び込んだ翌日。                                             ガブがまだ生きているという森の噂を聞き、追跡するために狼達を呼び集めている時だ。                         そいつはオレの方に冷酷なまなざしを突き付け、呆れた様に嘲笑っている。
「よし。追跡部隊はすぐ支度にかかれ」
「へい」
狼達が支度に取り掛かる。オレも準備のために穴蔵へと戻った。
「何がおかしいんだよ!」
いい加減腹立たしくなり、オレはとうとうそいつに訊いた。                                                銀の毛並みをふわりと揺らして、彼女はオレを見上げる。
「だっておかしいんだもの。仕方が無いじゃないか。                                                  あんたが心にも無い事ばかり言うものだから。                                                   ガブが生きていたって森の噂を聞いた時、あんなに嬉しそうな顔してたくせに」
本当におっかねえ奴。                                                                                妻のその紫水晶(アメジスト)の瞳は、オレの奥底まで覗き込んで来るんだ。                                       表情なんてこれっぽっちも出していなかったはずなのに、全くなんて奴だ。


オレの本心ってなんだ?オレはガブをどうしたいって言うんだ?                                           オレは、一体何に迷っているんだ?                                                          この時は自分でもその答えを見つけられなかったのに、おそらく妻は分かっていたのだろう。                        だが、そんな事聞きたくもなかった。だからオレは訊かなかった。                                       今は、今やるべき事をやらねぇと、頭がどうかしちまいそうだったから。


妻も、オレに何も言っては来なかった。言ったって無駄だって事までも、分かっていたんだろうな。                        自分の気持ちなんて、自分で見つけなくては何の価値もないのだ。                                          そういう点では、妻はオレなんかよりもずっと大人で、ずっとボスらしかった。
そんな妻だったから、谷を彼女に任せる事が出来た。力のある男達が群れを離れても、                              きっとしっかり谷を守ってくれる。そう信じられたから。それでなくても、
彼女にはオレの知ってるだけの薬草術を託してあったから、怪我人や病人が出
たとしても安心だ。だからオレ達は、すぐにでも出発する事が出来た。
あれ?そういや、イチがいねぇな。洞穴を覗いても、やっぱり奴の姿は無い。                                        さっきの集会が終わるまではずっと姿が見えていたのに……。
妻はそんなオレの様子を見取り、黙って外を指差した。見ると、遠くの岩陰に                                 狼の尻尾がちょこんとはみ出している。オレはホッと吐息をもらし、                                        そっちへ向かおうとした。その時、
「あんたさ」妻がオレの背中に言った。「みんなの前では掟に従って冷静に指示
を出したり、ちょっとばかし虚勢を張るのもいいけどさ、イチくらいには自分の
気持ち、話してあげなさいね。あの子あれで結構、自分なりに悩んでるのよ」
「へぇへぇ」
これが、オレが覚えてる限りで最後に聞いた妻の声だった。普段なら何て事ない
妻の一言だったが、その言葉に振り向きもしなかったこの時の自分に、                                    オレは後々になって後悔するのさ。                                                                  もうこの最愛の妻とは二度と顔を合わせる事は無いのだと、そう気付いた時にな。
記憶の中の妻は、この上なく輝いて見えるんだ。眩しくて仕方がねぇ。なんだか
辛くなって来たから、記憶のヴィジョンから、彼女はもう消し去る事にするよ。
さようなら、愛するヒト……。

 

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